祈り

とりなしの祈り

24日: 主に仕えていただくように祈る

「主にわたしたちに仕えていただくことができます。それによって奴隷・救い主は、命を与える霊として、わたしたちを通して他の人たちを牧養します」。牧養の主要な事は、問題を解決することではありません。牧養の内在的な意義は人の中へと命としてキリストを...
とりなしの祈り

23日: キリストの復活の新鮮な供給によって養われるように祈る

内なる人の更新が起こるのは、内なる人がキリストの復活の命の新鮮な供給で養われるときです。わたしたちの外なる人が、死の殺す働きによって消耗させられつつあるとき、わたしたちの内なる人(わたしたちの再生された霊と、わたしたちの内側の各部分)は、復...
とりなしの祈り

21日: 内なる人において日ごとに更新されるように祈る

キリストの中にいるという意味においては、わたしたちは新創造ですが、わたしたちの実際の日常生活においては、わたしたちはそれほど新しくありません。なぜなら、わたしたちはまだキリストを、わたしたちを占有し、満たし、わたしたちの命、性質、外観、表現...
とりなしの祈り

20日: 霊の新しさの中で仕えるように祈る

わたしたちの生活にも奉仕にも、古さがあってはいけません。わたしたちの奉仕に関して、わたしたちには律法と文字との古さではなく、霊の新しさがあるべきです。わたしたちはパウロのように、わたしたちの再生された霊の中で、内住するキリスト、すなわち命を...
とりなしの祈り

19日: 命の新しさの中を歩くように祈る

命の新しさの中を歩くとは、復活の領域の中を生き、命の中で王として支配することを意味します。命の新しさの中を歩くとは、わたしたちが完全に造り変えられて、キリストのかたちに同形化されるまで、わたしたちの中にあるアダムに属するすべてを取り扱う生活...
とりなしの祈り

18日: 神の友として神に祈り、神の民のためにとりなすように祈る

最上の祈りは、友として神に祈ることです。アブラハムは神の友でした。創世記第18章で、天の神はご自身を低くして、アブラハムの友となりました。アブラハムが神の御前でなした栄光のとりなしは、二人の友の間にある人性の、親密な会話であり、神の心の願い...
とりなしの祈り

17日: 悪しき者どもの邪悪な状態に陥らないように祈る

イザヤ書第57章は、悪しき者どもの邪悪な状態について語っています。このフットノートは言います、「悪しき者どもの邪悪な状態は、彼らが主に来て、主を食べ享受しないことです。彼らは多くの事を行ないますが、来て主に触れ、彼を取り、彼を受け、彼を味わ...
とりなしの祈り

16日: 自分の本当の状態で神に祈り、神を吸収するように祈る

わたしたちは、自分の状態を顧慮するのではなく、神を仰ぎ望み、神を見つめ、神を賛美し、神に感謝をささげ、神を礼拝し、神を吸収することによって、神の臨在の中へと入って神と接触する必要があります。そうすればわたしたちは、神の豊富を享受し、神の甘さ...
とりなしの祈り

15日: 神の必要を満たすために祈る

神のエコノミーにおいて、神はご自身がそれによって支配される原則を確立されました。それらの原則の一つは、だれかが祈らない限り、神は行動されず、行動しようとされないということです。わたしたちは神の必要について語っています。彼は何を必要としている...
とりなしの祈り

14日: 不朽不滅の中でわたしたちの 主イエス・キリストを愛するように祈る

主に対するわたしたちの愛は、絶対的でなければなりません。万物のうちで主を第一位とすることは、初めの愛、最上の愛をもって主を愛することです。愛は、信者たちが彼らの仲間の信者たちに三一の神を供給し、伝達するためです。それは、すべての信者が、神聖...
タイトルとURLをコピーしました