2022-05

とりなしの祈り

31日: 主の臨在で満たされるように祈る

人々を牧養するために、わたしたちは彼らをはぐくまなければなりません。はぐくむことは、人々を幸いにし、彼らを喜ばしくし、心地良くすることです。わたしたちは人々と接触するとき、喜ばしい表情をしていなければならず、活気のない表情をしていてはなりま...
とりなしの祈り

30日: 自分の兄弟のために戦うように祈る

アブラハムは自分の兄弟の弱点を数えず、ロトの苦難と災難に対して幸いではありませんでした。アブラハムに関する限り、自分の兄弟が捕らえられたことを見るのは恥でした。長老たちは認識する必要がありますが、牧養するときに彼らは他の人たちの罪を覆わなけ...
とりなしの祈り

29日: 新エルサレムを待ち望むように祈る

天幕を立てることは、一つの表現、一つの宣言です。それは、わたしたちがこの世に属しているのではなく、別のふるさとに属しているということです。わたしたちの真のふるさとは、さらにまさったふるさと、すなわち、天のふるさと、天の新エルサレムです。アブ...
とりなしの祈り

27日: 栄光の神がわたしたちに現れるように祈る

神はアブラハムに繰り返し現れることを通して、ご自身をアブラハムの中へと伝達し、彼に霊的な注入を経験させ、神の本質を彼の存在の中へと霊的に浸透させました。主イエスは、大いなる「わたしはある」、栄光の神としてアブラハムに現れ、ご自身をアブラハム...
とりなしの祈り

26日: アブラハムのその信仰の足跡にしたがって歩くように祈る

わたしたちはキリストにある信者として、アブラハムの団体的な子孫であり、アブラハムの歴史を繰り返しています。アブラハムの子たち、すなわち、アブラハムの団体的な子孫として、わたしたちは「わたしたちの父アブラハム…の…信仰の足跡にしたがって歩」か...
とりなしの祈り

25日: この時代に自分の魂の命を対処して、主の喜びの中に入れるように祈る

主の出現の時、彼の裁きの座を通して、ある信者たちは主の喜びの中に入り、ある信者たちは泣き叫んだり歯がみしたりして苦しむでしょう。主の喜びの中に入ることは、わたしたちの魂の救いです。わたしたちの魂を救うこと、あるいは獲得することは、わたしたち...
とりなしの祈り

24日: 信仰の結果である魂の救いを受けられるように祈る

Ⅰペテロ第1章5節の救いは完全な救い、究極の救い、三一の神の救いです。それは特にわたしたちの魂を、主の再来における、彼の統治上の対処という時代の刑罰から救うことを指しています。これはわたしたちの魂の救い、すなわち、終わりの時に現されるために...
とりなしの祈り

23日: わたしたちの信仰が主イエスの出現の時に、賛美と栄光と誉れとなって現れるように祈る

賛美となって現れるのは、信仰そのものではなく、信仰が試練を受け、試されることです。これは学生の勉学を試す学校の試験のようです。良しとされることが見いだされるのは試験であって、学生の勉学そのものではありません。わたしたちの信仰が試されることが...
とりなしの祈り

22日: 信仰がテストされて成長するように祈る

聖書は、テストされない信仰はないことを示しています。すべての信仰はテストされなければなりません。神がわたしたちの信仰をテストするのは、わたしたちが信仰と命において成長するためです。まず信仰がテストされることなしに、成長することができるクリス...
とりなしの祈り

21日: 信仰の盾を取るように祈る

わたしたちは、信仰がわたしたちとサタンとの間に置かれた盾であることを認識する必要があります。信仰は、敵の燃える火の投げやり(訴え、誘惑、提案、疑い、疑問、虚偽、罠、攻撃)に対する防御です。サタンの燃える火の投げやりは、わたしたちの思いの中へ...
タイトルとURLをコピーしました