20日: 新しいぶどう酒としてのキリストで満たされるように祈る

とりなしの祈り

わたしたちは、キリストをぶどう酒を生み出すぶどうの木として経験することによって、また新しいぶどう酒としてのキリストで満たされることによって、彼の中でまた彼と共に注ぎのささげ物となることができます。注ぎのささげ物が予表しているのは、キリストご自身であるだけでなく、天的なぶどう酒としての彼ご自身をもってわたしたちに浸透するキリストでもあり、ついに彼とわたしたちは一となって、神の享受と満足のために、また神の建造のために注ぎ出されます。「神の建造が用いられているのは意義深いです。ヤコブの注ぎはベテルで行われました。注ぎのささげものは召会生活で起こります。神の享受と満足のために注ぎ出されます。多くの聖徒たちはキリストを経験して、彼らが彼で満たされ、ぶどう酒そのものとなって、神の建造のために注ぎのささげものとして注ぎ出されているということです。これは戦略的な訓練です。これらの日々はわたしたちが犠牲となるキリストを経験し享受します。自分自身を評価するのではなく、すべてを忘れて彼に向きを変えてぶどう酒を飲みましょう。あらゆる経験をすればするほど浸透され、注ぎのささげものとなって、注ぎ出されます」(創35:14.マタイ9:17.ピリピ2:17.Ⅱテモテ4:6)。

[2023年12月定期訓練 メッセージ5]

 

創35:14

ヤコブは、神が自分と語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に注ぎのささげ物を注ぎ出し、またその上に油を注いだ。

 

マタイ9:17

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、皮袋は裂け、ぶどう酒は流れ出て、皮袋は駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れる.そうすれば、両方とも保たれる」。

 

ピリピ2:17

しかしたとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、わたしが注ぎのささげ物として注がれるとしても、わたしは喜びます.またあなたがたすべてと共に喜びます。

 

Ⅱテモテ4:6

わたしはすでに注ぎ出されています.わたしの去る時は迫っています。

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