19日: 犠牲の生活によって他の人に幸いを与えるように祈る

とりなしの祈り

ぶどうの木は、犠牲となるキリスト、すなわち、ご自身のすべてを犠牲にしたキリストを予表しています。キリストは彼の犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけました。「犠牲となるキリストがここにあります。あらゆる身分を捨てて、虚しくなりました。彼は神と人を活気づける人と成りました。士師記第9章13節は、野心と高ぶりがあります。野心は信者の機能を無効にします。障壁となってしまいます。リー兄弟は病院で、「犠牲」という言葉を最後の務めの言葉として語りました。犠牲という財産です。『召会と地方召会の歴史』という本の中で、ニー兄弟について語っています。ニー兄弟の務めの印象は、クリスチャン生活にとって助け、召会にとって助けとなったと言っています。これが財産です。リー兄弟が病院で横たわっているとき、ニー兄弟の犠牲の印象を思い出しました。リー兄弟の最後の言葉もこれに関係があります。『今の時代における神聖な啓示の先見者ウオッチマン・ニー』という本の第18章を読んでください。ニー兄弟は祈りと交わりの後、上海にとどまる決断をしました。一方で主に信頼しました。もう一方で、主の証しのために犠牲となる用意をしました。彼は良き戦いを戦い抜き信仰を保ちました。最後に、ニー兄弟は、『わたしはわたしの喜びを維持しています』と書き残しました。わたしたちの主の回復の財産について、これは犠牲に基づいているのです。財産は、兄弟が自分自身を主に注ぎだしたということです。神と人を活気づけるために注ぎ出されます。ここで良き地としてのキリストの面を享受しています。リー兄弟は六十一年前にこの事を持ち出しました。それが『すべてを含むキリスト』です。享受できるのはキリストの犠牲のゆえです」(申8:8.士9:13.詩104:15)。

[2023年12月定期訓練 メッセージ5]

 

申命記8:8

小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地であり、

士師記9:13

しかし、ぶどうの木は彼らに言った、『わたしは、神と人を活気づけるわたしの新しいぶどう酒を捨て置き、行って木々の上で揺れていなければならないのでしょうか?』。

詩篇104:15

すなわち、人の心を元気づけるぶどう酒、顔を輝かせる油、人の心を支えるパンである。

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