全焼のささげ物としてのキリストにとって、灰は終わりではなく、始まりです。灰は、キリストが死に渡されたことを意味します。しかし、東は復活を表徴します。わたしたちはキリストの中で減少させられて灰になればなるほど、ますます東側へと置かれます。わたしたちは東側において、太陽が昇ることと、わたしたちが復活の日の出を経験することを確信します。最終的に、この灰は新エルサレムとなります。キリストの死は、わたしたちを終わりへともたらし、わたしたちを減少させて灰とならせます。復活の中でこの灰は、神の建造のための尊い材料となります。わたしたちは減少させられて灰となるとき、三一の神の造り変えの中へともたらされて、新エルサレムを建造するための尊い材料となります(マルコ9:31.ピリピ3:10-11.ローマ12:1-2.Ⅱコリント3:18)。
[2023年9月 東京全時間訓練集中講義]
ピリピ3:10
キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、
ピリピ3:11
何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。
ローマ12:2
またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです。
Ⅱコリ3:18
しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。