6月20日 とりなしの祈り

dailyprayer06 とりなしの祈り

20日:聖書の中の主観的な真理を回復するために祈る

神の救いには二つの面があります。それは最上の衣で表徴される外側の客観的な面と、肥えた子牛で表徴される内側の主観的な面です。わたしたちの客観的な義としてのキリストは、わたしたちの外側の救いであり、わたしたちの主観的な命としてのキリストは、わたしたちの享受のためであって、わたしたちの内側の救いです。すべての客観的な教理は、主観的な経験のためです。客観的なキリストは、「最上の衣」、すなわち神を満足させる義であって、悔い改めた罪人を覆います。また主観的なキリストは、「肥えた子牛」、すなわち豊富なキリストであって、十字架上で殺され、復活における信者たちの命の供給と享受となります(ルカ15:22、23-24、ヨハネ10:10)。
[2021年5月メモリアルデー特別集会 メッセージ4]

ルカ15:22

しかし、父は奴隷たちに言った、『急いで、あの最上の衣を持って来て彼に着せ、手に指輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい。

ルカ15:23

また、あの肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい.食べて楽しもうではないか.

ルカ15:24

わたしのこの息子が死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから』。こうして彼らは楽しみ始めた。

ヨハネ10:10

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない.わたしが来たのは、羊が命を得、しかも豊かに得るためである。

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