25日: 絶対的であるように祈る

とりなしの祈り

神のための生活をしているでしょうか? キリストを享受して、彼のために、わたしたちを通して生活していただく必要があります。自分の中には、絶対的なものがありません。ペテロもそうでした。彼は最終的に主の御名を否みました。最終的に、岸辺で、彼らは主によって、はぐくまれました。舟の反対側に網を下ろしたら、金魚ではなくて、百五十三匹もの大きな魚を獲ました。ヨハネはペテロを見て、「主だ!」と言いました。その後、海に飛び込みました。「主イエスを愛するか」と、三度尋ねられました。三回否んだ後に、三回同じ質問をしました。「これら(弟子たち)よりもわたしを愛するか?」と、主は言いました。ペテロは、他の弟子たちよりも自分は主を愛しているとかつて言いました。彼の天然の愛は砕かれました。主だけが絶対的です。内側の命は、全焼のささげ物をすることができる生活です。この命が、神のために、神の満足のための生活をさせる生活です。これが全焼のささげ物です。肉体と成ることの時期において、イエスにあるあの実際を学びますが、包括の時期(復活の時期)において、このことをさらに実際において生きることを学ぶのです(レビ1:9.ヨハネ8:29.Ⅱコリント5:9)。

[2023年9月 東京全時間訓練集中講義]

 

レビ1:9

ただし、その内臓とその脚は水で洗わなければならない。そして祭司は、そのすべてを祭壇の上で、全焼のささげ物として焼いて煙を立ち上らせなければならない.それは火によるささげ物であり、エホバを満足させるかおりである。

 

ヨハネ8:29

わたしを遣わされた方は、わたしと共におられる.彼はわたしを独りにしておかれない.わたしはいつも、彼に喜ばれる事を行なっているからである」。

 

Ⅱコリント5:9

こういうわけで、わたしたちはまた、体を住まいとしているにしても、それから離れているにしても、彼に喜ばれようと懸命に努めています。

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