第12編 世界的な祈りに対するアンドリュー兄弟からの励ましの言葉(2020/4/20)

第28課 アンドリュー兄弟の2020年疫病期間のメッセージ集

今は前代未聞の時である

今は前代未聞の時であると思います。ここに今朝の朝刊のニューヨークタイムズ新聞があります。そこには、コロンビア大学の歴史家がコメントしたことについての記事があります。この記事には、「今は、劇変する不確実性に満ちた時代であって、わたしたちがかつて直面したどのような時代よりも、桁違いの時代である」と書かれています。これは驚くべき記事です。実は、この記事のタイトルは「今日の世界経済の終焉」です。政府の最高責任者やそこの国民に、これから何が起こるかを聞いてもだれもわからないでしょう。

 

リー兄弟が世界情勢の変化に直面した時の反応は、時代を転換する祈りであった

わたしは祈りについて少し語りたいと思います。多くの人は、「リー兄弟だったら、このような状況の中でどうしただろうか?」と言います。わたしはリー兄弟ではありませんので、リー兄弟がどうするかは言えませんが、世界情勢が変化したある二つの出来事に対して、リー兄弟がどのように反応したかについて語りたいと思います。1967年の六日間戦争の間、異邦人が一千年間にわたって手中に収めていたエルサレムを、ユダヤ人が奪還しました。この事は、世界にとって大きな出来事でした。サンフランシスコの病院にいたリー兄弟はこの事を聞くと、この事を報告した兄弟の手を取って、ベッドから飛び起き、その兄弟と共にひざまずいて祈りました。この事は、彼の一つの反応でした。

もう一つの出来事は、リー兄弟が1942年に中国にいた時です。あなたがたのうちの多くの人がご存知のように、当時の中国の状況はとても過酷なものでした。その年は、日本が中国に侵略して5年目にあたる年でした。人々は物を奪い取られたり、食物や供給が不足していたりして、あらゆる人が恐怖の中で生活していました。奇跡的なことに、当時のリー兄弟の個人の手記が保存されており、それらはウイットネス・リー全集の中に収められていますので、あなたがたはそれを読むことができます。当時、異常事態の下で、世界にはあらゆる種類の災難があり、召会はあらゆる種類の苦難を受けていました。その時、リー兄弟は、「今は、神の心の願いの時代ではなく、神の手続きの時代です。神は、手続きの時代から神の心の願いの時代に変えるために祈る人たちを必要とします。その祈りは、時代を転換させる祈り、手続きの時代から神の心の願いの時代に変えるための祈りです」と言いました。この事も考えてみてください。これも非常に重要です。彼はこの事を小さな紙に書きました。その30日後、煙台(チーフー)での復興が起こりました。この復興は、回復の中での最初の復興でした。そして100日間の集会があったのです。

わたしが指摘したいのは、リー兄弟が世界情勢の変化に対して取った反応は祈りであったということです。今わたしたちがこの「絶えず祈る」ことを実行していることで、わたしは喜んでいます。世界中の聖徒たちがこの事に加わってることに感謝します。すばらしいです。これを継続する必要があります。ところで、この事は今、21日間で終わるのではなくて、今月末まで継続します。わたしたちはまだこの事を終えるのではありません。わたしたちは祈り続ける必要があります。

 

わたしたちの祈りは、神に時代を転換させる祈りでなければならない

わたしたちの祈りは、自分のためではなく、自分の保護のためではなく、神が行動して時代を変えるためです。とても興味深いことに、啓示録は香壇について二度述べています。それぞれの箇所は、神が何か大きな事をする前に述べられています。一つ目は第5章です。それは七つの封印を解く直前に記載されています。そして、香壇は再び第8章で述べられています。それは七つのラッパを吹く前(七つの封印のうちの最初のものが解かれる直前)に記載されています。ですから、香壇はいつも、神のエコノミーにおいて何か非常に時代的な事が起こる前に述べられています。一つ目は、七つの封印が解かれる前であり、二つ目は、七つのラッパが吹き始められる前です。

 

金の香壇の祈りは完全に神の行動と関係があり、やめてはいけない

実は旧約で香壇が最初に述べられているのは、出エジプト記の第30章です。香壇が述べられた直後、罪を覆う銀について記載があります。わたしたちはこの事をライフスタディと結晶の学びから学びましたが、罪を覆う銀は、神の行動と軍隊の編成を表徴しています。香壇は、神の行動と非常に関係があります。聖徒たちの祈りである香壇は、そこにキリストのとりなしが加えられます。それはやめてはいけませんでした。それは一度限りの事ではなく、継続する必要があります。それはずっと続く必要があります。わたしが言った出エジプト記30章の中には、永久の香壇について書かれています。言い換えれば、その意味は、幕屋がある限り、香壇があり続けるべきであり、祭司が毎日、その香壇を顧みる必要があったということです。とにかく、わたしたちの祈りは、良いすばらしい開始を持ちました。しかし今それを継続する必要があります。

祈りは三つの敵に打ち勝ち、聖徒たちをバイタルにする

わたしはとても良い証を聞きました。どのようしてこの祈りの実行が、彼らの生活を変えたかについて、召会生活を変えたかについて聞きました。ある場所では最初、800人が祈っていたのですが、今1000人以上が祈っています。わたしはまず、聖徒たちが祈りを通してバイタルにされたという多くの証しを聞きました。もちろん、リー兄弟はバイタルグループの緊急の交わりについて語っていた時、バイタルな人と勝利者を結びつけました。今日の勝利者は、死に打ち勝ち、なまぬるさに打ち勝ち、実を結ばないことに打ち勝ちます。リー兄弟は、今日これらの人が勝利者であり、これらの人たちは祈る人たちであると言いました。言い換えれば、彼らは祈りを通してバイタルになります。わたしはここで、理論を語ってるのでありません。この多くの冬眠していた人たち、集会に来てなかった人たちでさえ、この祈りに、インターネット、小グループ、バイタルグループを通して加わったので、彼ら自身がバイタルにされました。彼らはもはや、死んでおらず、もはやなまぬるくなく、実を結ばない状態から脱却するようになりした。彼らは今や、実を結ぶようにさえなりました。ですから、祈りは聖徒たち一人一人をバイタルにします。召会は確かに何かすばらしいことをしています。多くの召会ですばらしいことが起こっています。

 

個人がバイタルにされるだけでなく、召会も祈りの召会となる

ある召会では、100%の人が参加しています。ある場所では、50%の人が加わっています。わたしが言ってるのは、わたしが東洋から聞いたニュースです。わたしはさらに西洋の方でもこのような証しがあると信じます。個人がバイタルにされるだけでなく、召会全体がバイタルにされているのです。召会全体が祈っています。それは召会が祈っているという事柄であるだけでなく、召会が祈る召会となっているという事柄です。召会生活というのは、祈る生活です。

次にウイルスは中国で始まり、聖徒たちは中国のために祈りましたが、今やウイルスは全世界に広がったので、特に西洋で広がったので、聖徒たちはなおも祈っています。兄妹姉妹のために西洋と東洋の兄妹姉妹は祈っており、負担を持っています。これは実に一人の新しい人の祈りです。わたしは多くの香がこの祈りを通してたかれてることに気がついています。

 

主の回復の諸召会は変わりつつある

わたしは理論を話してるのではありません。主の回復の諸召会は変わりつつあります。聖徒たちはバイタルにされてきており、諸召会はバイタルにされてきています。わたしが行ないたいことは、あなたがたを励まして、この祈りを堅く持ち続けていただくことです。祈りは一過性のイベントではありません。わたしが喜んでいるのは、祈りが何人かの兄弟姉妹、諸召会の日常生活の一部となってるということです。以前は週に一回の祈りの集会でしたが、今は毎日祈っています。ある人たちは朝起きたらすぐにさまざまなグループの人たちと祈っています。わたしが励ましたいのは、あなたがたがみな続けて祈ることです。

 

やもめの絶え間ない祈りは主の再来と関係がある:ルカによる福音書第18章

まずわたしの思いに浮かんだのは、ルカによる福音書第18章です。そこでは女がしつこく祈っています。まずそのたとえの1節において、主が何と言っているかを見てみましょう。それは、「彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように」と言っています。これは しつこいやもめが不義な裁判に訴えているたとえです。また8節を読んでください、「人の子が来る時、地上に信仰を見いだすであろうか?」。人の子が来る時、このような祈りは人の子の来臨と関係があります。これは一時的な祈りではなく、人の子の来臨と結び付けられています。人の子が来る時、彼は「祈っている人」を見いだすであろうかとは言っておらず、「信仰」を見いだすであろうかと言っています。その意味は、信仰は絶えず祈る者たちの中に見いだされ、それが人の子が来るまで続くべきであるということです。これは非常にすばらしいことです。主はわたしたちにリマインドして、絶えず祈るように励ましています。

 

祈りを固く持ち続けることは、三回でやめてはいけない:列王記第13章

あなたは一つの物語を知っているでしょう。エリシャが列王記下第13章で言っていますが、矢を地に向けて何度も何度も射るように言いましたが、王は三回でやめてしまいました。エリシャは王になぜあなたはやめたのかと言いました。王は三回で射るのをやめたので、シリアを打ち破ることができるのは三回だけでした。これはわたしたちが絶えず祈る必要があることを示す物語の一つです。

 

見張り人として昼も夜も絶えず祈り、エホバに思い起こしていただく:イザヤ書第62章

イザヤ書第62章で主は見張り人を城壁の上に立てました。イザヤ書第62章6節は言います、「あなたの城壁の上にわたしは見張り人を立てた.昼も夜も絶えず、彼らは決して黙していない。あなたがた、エホバに思い起こしていただく者たちよ、黙っていてはならない」。これが意味するのは、わたしたちが積極的に祈り、そして主をリマインドすることをやめてはならず、主を静かにさせてはならないということです。それはこの地に祈りを確立するまでです。これもまた祈りに関する物語です。

 

天秤に名刺を置き続け、一人の姉妹の祈りでも、すべてが壊れることがあり得る

わたしはニー兄弟とリー兄弟のことを思い出しますが、彼らは絶えず祈り、絶えず祈り、絶えず祈っていました。世界情勢を見るとき、何もすることができません。あなたができることはただ、絶えず祈ることです。時代の祈りを祈ることです。あなたは、「わたしは祈ったけど何も変わったような気がしません。一日目も何も変わらない。二日目も何も変わらない」と言うかもしれません。しかし、リー兄弟は言いました。これはあなたがこの天秤に名刺を置いてくようなものです。名刺を一枚置いても何も起こらず、もう一枚置いても何も起こらないかのようですが、最後の一枚を置くとき、突然すべてのバランスが変わります。その時、祈りの効果があったということがわかるでしょう。これは蓄積された祈りです。すべての聖徒たちの蓄積された祈りです。ある小さな一人の姉妹が祈るとします。そうするとある物に少しひびが入り、そしてひびが全体に広がって、すべてが壊れるのと同じです。これと同じように王国はやって来ます。最後に小さな祈りをもってすべてが完成する時に、すべてが崩れ落ちて、王国がやって来ます。ですから、わたしたちは絶えず祈り続ける必要があるのです。

 

王国の祈りを祈る:エバン・ロバーツの祈り

わたしは一つの事を覚えています。ウェールズの復興でエバン・ロバーツという男が祈りました。彼は雄弁であったから復興をもたらしたのではありません。彼の特徴は祈りにありました。彼はある時、姿を消しました。しばらくの間、人々は彼がどこに行ったのかと不思議に思いました。そしてしばらくして、ある人が彼に会って何をしていたのかと聞きました。エバン・ロバーツは、「わたしは王国の祈りをしていたのだ」と言いました。これを聞いてください。わたしは今回、王国の祈りをしています。どうかわたしたちがみなこの王国の祈りにあずかり続けますように。そしてついにはだれかが最後の一枚の名刺を置く時がやってきます。その時、バランスが変わります。わたしはこの事柄をあなたがたにゆだねたいと思います。カリフォルニア州の知事が何度も報告しているように、社交的な集まりを避けるなどの決まりを守る必要があります。しかし、今ドアを閉めて家に閉じこもるのではなく、立ち上がって祈ることを忘れないようにしましょう。わたしたちはなおも共に全世界の主の権益のために祈っています。まだ祈りに加わってない方々はぜひ加わってください。そして祈ってきた方々はこれからも祈り続けてください。アーメン。 (アンドリュー兄弟の交わりより。出典:https://unceasinglypray.org/updates/

 

 

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