21日間の世界的な祈りに対する励ましの言葉(ミノル兄弟)

21日間の世界的な祈りに対する励ましの言葉(ミノル兄弟) 務めの供給

親愛なる兄弟姉妹たち、わたしはあなたに分け与えたい負担があります。あなたは主のあわれみによって、主の導き、内なる負担にしたがって、「全世界での21日間の絶え間ない祈り」に参加しました。この祈りを「城壁の上の見張り人の祈り」と呼ぶ人もいます。わたしがとても主に感謝しているのは、わたしたちが諸召会の中でこの事を行うように、主が導いてくださったということです。同労者からこの事を開始して、それから全世界の諸召会も開始しました。わたしが知る限り、世界中の多くの聖徒たちが、すべての時間枠において祈っています。わたしは何人の聖徒が祈っているかを告げることができません。15,000組の枠組みに近い数があると思います。あなたは、それぞれの時間枠に、一人の人が祈っているのではないことを信じなければなりません。もちろん、一人の人が祈っている時間枠もあるでしょう。ある聖徒たちは個人的に祈っているでしょうし、ある聖徒たちは二人または三人で祈っているでしょう。わたしが聞いたのは、一人の人がこの祈りのグループに登録したのですが、そのグループにはその他の30人の聖徒が共に祈っているということです。ある国においては、一つの登録に対して300人の聖徒が祈っています。ですから、合計すると、多くの兄弟姉妹がこれらの21日間の祈りに参加しています。わたしはこの事を誇張して言っているのではありません。この事は、前代未聞の出来事です。このような祈りは、一人の新しい人としての、また霊的な戦士としての全世界的な祈りであり、主と今日の主の権益と共に立つためのものです。この祈りは、ほぼ折り返し地点を通過しました。わたしはただ、全世界でとりなしているすべての人に対して、少し語る感覚があります。これらの言葉は、わたしたちを増強して、励ますためのものであって、わたしたちが弱らされたり、ペースダウンしたりすることがないためのものです。これらの言葉は、あなたの霊的なスタミナ(持久力)を増強するためであり、それにエネルギーを与えて、あなたが訓練して祈り、21日間の折り返し地点を過ぎてもなおも力強く祈るためのものです。ですから、わたしはいくつかの事をこの21日間の祈りに関して語りたいと思います。

 

絶えず祈る生活を建て上げる

わたしたちのこのホームページ名前が「絶えず祈りなさい」と呼ばれていることをご存じだと思います。その言葉一つだけをとっても、わたしたちが祈りの生活において持つべき重要な特徴が、実は、祈りの「継続性」、「不変性」、「持続性」、「粘り強さ」、「熱心さ」であることが、わかると思います。それらは、わたしたちが祈りの生活を建て上げるときに持つべきものです。わたしたちはさまざまな場所で24時間の祈りをしています。わたしたちはこの事を21日間行なうのですが、実際、この事にはさらなる忍耐とエネルギー、訓練を必要とします。兄弟姉妹、これこそが、個人の祈りであれ、団体の祈りであれ、わたしたちの祈りの生活の性質なのです。ですから、新約で使徒パウロによってこの祈りの事柄が命じられている時、彼は「根気の限りを尽くして祈り」という言葉と結びつけてそれを考え、「根気」という言葉を用いているのです。ローマ人への手紙第3章、コロサイ人への手紙第3章5節、テサロニケ人への第一の手紙第5章、エペソ人への手紙第6章にこの事が書かれています。パウロはエペソ人への手紙第6章において、戦士としての召会について語っています。戦士としての召会は、神と神の召会に敵対する神の敵と、そのすべての堕落した天使と霊の勢力に立ち向かうためです。霊的な戦いにおいて、この支配者と権威者と戦うために、神の完全な武具を身につけなければなりません。わたしは今ここで、この事を詳しく説明しようとしているのではありません。わたしたちはこの戦いにおいて、キリストを着て、立って、抵抗する必要があります。それから、その章の終わりは、わたしたちが自分の思いを保護するための救いのかぶとをかぶり、神の言葉であるその霊の剣を取らなければならないと言っています。それから、その節はこう言っています、「(その霊の剣を)すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい.どんな時にも霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい」(エペソ6:18)。ですからここで、今日必要とされている種類の祈りについての非常に非常に明確な命令と、明確な描写があります。特にこのような祈りは、単なる自分自身の利己的な必要のためではなく、いくらかの一般的な必要のためでさえありません。わたしたちは召会に属している者として、ここで、特別で、高くて、中心的で、神の心とみこころに触れるために祈っており、また敵を打ち破るために祈っています。わたしたちは、この時代の価値のあるもののために祈っていると言ってもよいでしょう。

 

時代の祈りに対する大きな必要

リー兄弟は、「時代の祈り」という用語を用いたことをあなたに思い起こしたいです。わたしたちはどのように時代の祈りをするかを知る必要があります。この事が意味するのは、あなたはキリストのからだとして、武具を完全に身に着けて、天上の地位に立って祈るべきであるということです。そこで、わたしたちは、とりなす方(御座におられるキリストご自身)に結合して、地上でとりなし、天上での祈りに共鳴し、応答する方法で祈ります。今日、神が行動し、召会が建造され、花嫁が用意され、王国が来て、主が再臨されるために、これらのものは(神エコノミーのすべての部分も神の権益のすべての部分も)、このような祈りを必要とします。基本的な祈りも真に必要ですが、単にそれだけではなく、このような祈りに対する大きな必要があります。中心的なもののために、さらに高いもののために祈る必要があります。ご存じのように、この21項目の祈りは、聖徒たちにすべきであると押しつけているものではありません。それは一つの導きです。これらの一つ一つの項目は、今日の神の心、神のみこころ、神の必要に触れています。それらは、神の行動と神の証しと関係があります。ですから、このような祈りをするために、さらにはこのような王国の祈りをするために、わたしたちは根気の限りを尽くして、完全に目を覚ましている必要があります。あなたは祈っていて、五分後、十分後に容易に疲れてしまうでしょう。そうあってはなりません。わたしたちは根気の限りを尽くすという思いを持っていなければなりません。わたしたちはしつこくこの祈りをし、根気強くこの祈りを顧みなければなりません。それは、霊の中でわたしたち自身に活力を与えて、主の霊を通してわたしたちの内なる人の中へと増強されることによります。それは、このような祈りの務めを果たすためです。このような祈りは、弱い人のためではなく、受け身的な人のためでもなく、無関心である人のためでもなく、あちらこちらへと行ったり来たりする人のためでもありません。このような祈りは多くのエネルギーを必要としますし、体力を消耗させるものであると言ってもよいでしょう。これらは神の言葉の中に書かれているものです。

兄弟姉妹、わたしはこの機会をとらえて、あなたがたを励ましたいです。この折り返し地点において自分自身を増強して、このレースの折り返し地点を通過するために自分自身を再びささげてください。このような祈りをすることは、小さな事柄ではありません。無数の人がこのような祈りをしているわけではありません。多くの人はこのような祈りから遠く離れています。祈っている大多数の人は、その他の祈りの運動に携わっています。このような祈りをしている人はほとんどいません。これは何人の人が祈っているかという事柄ではなく、何人の人がこのような祈りを理解しているかという事柄であり、またその祈りの内容が何であるかという事柄です。これは、神のみこころを成就するということに関連して、どれほどこの祈りが効果的で、適用されているかという事柄です。何人の人が、「あなたの御名が聖とされますように。あなたの王国が来ますようにあなたのみこころが天で行なわれてるように地でも行なわれますように」と祈ってるでしょうか? 今日多くの人がこのパンデミックが終わるように、ウイルスがなくなるように、経済や生活が安定しますようにと祈っています。わたしは、これらの祈りが悪いと言ってるのではありませんが、私たちはただ単にそのようなことのために祈っているのではなく、自分の益とか福利厚生のために祈っているのでありません。実は神はこれらのものすべて顧みてくださいます。神の義と王国を追い求めたらこれらの必要は加えて与えられます。主が求めてるのは小さなグループの者が立ち上がって聖なる祭司の体系、王なる祭司の体系となって、天上のとりなしに協力し、共鳴して彼の天の務めにあずかることです。彼のとりなしと一つになって彼のみこころを地上にもたらすことです。ですから、このために多くの訓練と集中力を必要とします。

 

モーセの模範:わたしたちの祈りの生活の絵

私は出エジプト記のモーセが祈っている物語を述べたいと思います。モーセが祈ってる時にアマレク人に対してイスラエルの民は勝利を得ました。そしてモーセが祈ってた時に、ヨシュアが地上で戦っていました。これは天でキリストがとりなしてる時に、彼はまた地で戦っておられるということです。このアマレク人は肉を指しています。しかし、主はもう一面で天でとりなしています。ローマ人への手紙第8章で私たちの中におられるキリストと、天でとりなすキリストがいます。同じキリストが一面では祈っており、もう一面で私たちの中で戦っています。私たちはこのキリストと一になって、その霊として私たちの中におられる方と一となり、今日のヨシュアとして戦っています。もう一面で彼は今日のモーセとして、御座に座しており、彼の手が下がる時に、アマレク人は優勢になりました。この手が下がったというのは、この面ではキリストの予表ではありません。モーセも人であったからです。ですので、モーセはホルとアロンによって両方から支えられる必要がありました。そして岩の上に座りました。その手が上がってる時に最終的にアマレク人に勝利することができました。これは私たちの祈りの生活の良い絵です。まず私たちは岩の上に座る必要があります。この岩は私たちのサポート、体力、継続力としてのキリストであり、私たちの祈りの生活を支えます。そしてこの手は祭司職また王職によって支えられています。この意味は今日このような祈りの雰囲気、状態で勝利を得るためには、一面で祭司職を実行して霊を活用して、至聖所の中に入り、御座の前で祈る必要があります。もう一面で、王職を活用して、神に服従し従順になって、あらゆる反逆を対処する必要があります。このようにすれば、戦いの祈り、見張りの祈りを継続することができます。

 

再び自分をささげて、神の必要のために祈る

ですから、兄妹姉妹再び自分自身をささげてこの十日間をささげましょう。そしてさらに強い方法で、さらに有力な方法で、そしてさらに引き上げられた効果のある方法で祈りましょう。このように、すべての諸召会、多くの大陸、多くの言語が祈りに加わり、一人の新しい人として祈ることは小さなことではありません。この終わりの時代に非常に必要なことです。私たちはみな立ち上がって、一方の手に武器を持ち、もう一方の手に建造の道具を持って、戦いと建造にあずかります。この集中した祈りのための思いを持ちましょう。主はこのように祈りました。このように祈れば祈るほど、私たちは強くなります。私はさまざまな兄弟たちのグループと共に祈っていますが、祈れば祈るほど、例えば15分ぐらいかもしれませんが、祈りをとめることができなくなります。さらに5分間祈ったり、10分間続けて祈ってしまいます。なぜなら、霊が強いからです。霊が動いてるからです。そして油塗りがあり、負担がそこにあるからです。ですから、これはもはや時間枠の問題ではなく、神の中へと祈り込んでいるのです。その霊と一つになって祈り、主の負担を祈り出しているのです。その時、私たちは自分の必要とか私たちの周りで見るもののために祈るのではなく、神聖で奥義的な領域の中に入って、真剣に神の必要のために祈る時、あなたは止めることができないでしょう。このような経験をあなたがたも持っていることと思います。ここでの要点は祈れば祈るほど、さらに祈る根気と体力を持ち、祈りの筋肉が発達します。祈りに対する願いも強められ、祈りに対する士気、気持ちも、強くなります。

 

ダニエルの模範:時代の価値を持つ祈りをする

わたしがもう一つ言いたいことは、わたしたちの祈りにおける粘り強さ、忍耐力、熱心さの事柄です。そして覚えていてほしいのは、これらの日々の祈りが時代の祈りの一部として勘定さなければならないということです。それは、この祈りには時代の効果と時代の価値がなければならないということです。それはどのような意味でしょうか? わたしたちが時代と言うとき、それは事柄が変わり、時代が転換することを意味します。このような祈りの例証は、ダニエルの事例です。ダニエルは大いに祈りました。最も有名な祈りは、宮殿にいる他の人たち、王に仕える人たちがダニエルを除き去り、殺そうとしていることを知った後、彼がエルサレムに向かって窓を開いて1日に3回祈ったことでした。そして彼らは、他の神に祈る者は獅子の穴に投げ込まれるという文書に王に署名させました。ダニエルはこのことを知った後、抵抗したり、怖がったりしたのではなく、強くなりました。ただそのことのゆえに彼は自分の家に行き、窓を開けてエルサレムを見て、日ごとに忍耐し、ひざまずいて祈って、神の御前で感謝をささげました。要点は、彼は「いつもそのように行なっていた」ということです。彼がこのように毎日祈り続けることに何の変化もありませんでした。彼には三つの祈りの時間枠がありました。だれも彼がそこでどのくらいの間祈っていたかを知りません。このような祈りは最終的に主を喜ばせ、ダニエルは滅びから免れました。

わたしがこのことについて述べたのは、ダニエル書第6章7節にあるすばらしいフットノートを、あなた自身が読むことができるようにするためです、「この章の中心は、神のエコノミーを執行するための人の祈りです。神は彼の忠信な祈りの経路を通して、キリストの来臨のために、彼の選民において彼のエコノミーを執行します。神は彼のエコノミーを完成することを渇望しますが人が地上での彼のエコノミーのために祈ることを必要とされます。サタンの計略は、神の行動のために祈りを阻止することです。大臣や太守たちの意図はダニエルを滅ぼすことでしたが、彼らの背後にいるサタンの意図は、神が彼のエコノミーを執行するのに用いている祈りの経路を断ち切ることでした」。このことがわかりますか? サタンはただ一つのことをすることができます。サタンは神を妨げることができます。それはダニエルのような祈りの経路を断ち切ることです。ダニエルはたった一人でしたが、今日わたしたちは多くの人たちがいます。彼は祈り、最終的に捕囚から良き地への帰還に時代を変えました。

またここに別のフットノートがあります。第6章10節のフットノート1は言います、「ダニエルは、イスラエルの子たちが七十年間、バビロンの王たちに仕えるというエレミヤの予言を読みました。彼はこの言葉に立って、この予言の成就と捕囚の帰還のために、何度も祈ったに違いありません。彼は何事にも彼の祈りを停止させたり、阻止させたりしませんでした。彼は、彼の祈りが神の選民に関する神のエコノミーを執行するためであることを知っていました。ですから、彼の祈りは厳粛な事柄でした」。わたしたちは同じことをしています。今日、ダニエルと同じことを祈っています。わたしたちは新約におり、この時代の終わりの間近にいます。特に主の回復におけるわたしたちの負担は、この時代を転換することです。ダニエルの祈りは時代を転換しました。彼自身は帰還しませんでしたが、彼の祈りは帰還をもたらしました。彼の祈りによって神は奥義的で隠れた方法で行動し、異邦人の王の霊を奮い立たせました。最終的に数年後、イスラエル人がその地に帰還するという布告を発し、エレミヤの預言が成就しました。預言はそこにありましたが、だれかが祈らなければ、帰還はなかったでしょう。

 

時代を転換させて主の再来をもたらすために、この祈りを継続させる

兄弟姉妹、今日わたしたちは非常に並外れたことを行なっています。これは単なる祈りの運動ではありません。これは異なるものです。興奮して24時間体制で祈り、それから21日間が過ぎ去るということをわたしは望みません。真の負担は、個人の祈り、団体の祈り、召会の生活が、この21日間の訓練を通して引き上げられ、より強くなり、建て上げられるということです。 わたしは21日後にどのようになるかは言うことができませんが、この祈りが止まらないことを心から願っています。 21日間は終わるかもしれませんが、わたしたちの多くは家に閉じ込められており、行動が制限されています。今の時は、わたしたちが祈りを継続し、さらに絶えず祈るためです。それは祈りの経路がさらにバイタルになり、優勢になって、主が行動され、捕囚を帰還させるだけでなく、時代を転換させて主の再来をもたらすためです。したがって、これらすべての項目は、この時代に対して神の心の中にあるものに触れます。わたしが望むのは、わたしたちがみなこれを見て、ダニエルのように主が行なっていることを理解し、洞察力を持つことです。祈りは真に異なる次元で継続するでしょう。わたしたちの集団の祈りを通して、真に神の御座に触れ、主の行動をもたらして、地上で主が前進され、彼のエコノミーを遂行されます。主が彼の回復における諸召会の祈りを強めてくださいますように。アーメン。

(ミノル・チェン兄弟の交わりより。出典:https://unceasinglypray.org/updates/

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