ピリピ人への手紙第3章9節における神の主観的な義は、実は神と人に対して正しい日常生活となる神ご自身です。神と人に対して正しい生活は、わたしたちの日常生活における表現としての神、すなわち、わたしたちを通して生かし出された神ご自身でなければなりまません(マタイ5:20.ガラテヤ2:16,20.ヘブル12:2)。
[2023年5月全国特別集会]
マタイ5:20
わたしはあなたがたに言う.あなたがたの義が聖書学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の王国に入ることはない。
ガラ2:16
それでも、人が義とされるのは、律法の行ないに基づいてではなく、イエス・キリストにある信仰を通してであることを知って、わたしたちもキリスト・イエスの中へと信じたのです.それは、律法の行ないに基づいてではなく、キリストにある信仰に基づいて義とされるためです.なぜなら律法の行ないに基づいてでは、いかなる肉も義とされないからです。
ガラ2:20
わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。
ヘブル12:2
わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。