6月14日 日ごとのパン

dailyfood01 日ごとのパン

啓示録 2:17, 17節のノート1-4

「耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されたマナを与えよう。また白い石を与えよう。その石の上には、それを受ける者のほか、だれも知らない新しい名が記されている」。

ここで「勝利を得る」とは、特に召会がこの世と結合すること、偶像礼拝と姦淫の教え、聖職者階級制度の教えに勝利を得ることを意味します。
「マナ」は、神の民を彼の道に進ませる天からの食物としてのキリストを予表します。そのマナの一部分は、契約の箱の中に隠されている金のつぼに保存されていました(出十六・三二―三四、ヘブル九・四)。公のマナは、民が公に享受するためでした。隠されたマナは、隠されたキリストを象徴し、特別の分け前であって、この世的な召会の堕落に打ち勝つ、彼の勝利を追い求める者たちのために取って置かれています。召会がこの世の道を行く一方で、これらの勝利者たちは、前に進んで至聖所の神の臨在の中に住み、そこで隠されたキリストの特別の分け前を、彼らの日ごとの供給として享受します。今日、この約束は、正常な召会生活の中で成就されつつあり、また来たるべき王国において完全に成就されるでしょう。わたしたちが主を追い求め、世的な召会の堕落に打ち勝ち、今日、主の特別な分け前を享受するなら、隠されたマナである彼は来たるべき王国で、わたしたちの褒賞となるでしょう。もしわたしたちが今日、召会生活の中でわたしたちの特別の分け前としての彼を得損なうなら、確かに来たるべき王国で、彼を褒賞として享受し損なうでしょう。
聖書で石は、神の建造のための材料を象徴します(マタイ十六・十八、Ⅰペテロ二・五、Ⅰコリント三・十二)。天然の存在では、わたしたちは石ではなく、土くれです。わたしたちは再生を通して神聖な性質を伴う神聖な命を受けたので、キリストをわたしたちの命の供給として享受することによって石に造り変えられ、さらに宝石にさえ造り変えられることができます(Ⅱコリント三・十八)。この世的な召会に従わないで、正常な召会生活の中で主を享受するなら、わたしたちは神の建造のための石に造り変えられます。これらの石は、白い色で示されているように、主によって義とされ、良しとされています。ところが、この世的な召会は、彼に罪定めされ、拒否されます。召会を建造する神の働きは、わたしたちの造り変えにかかっています。その造り変えは、わたしたちの命の供給としてのキリストを享受することの結果です。
「名」はパースンを示しています。新しい名は造り変えられた人の名称です。白い石に造り変えられた信者はみな、「それを受ける者のほか、だれも知らない新しい名」を持っています。そのような新しい名は、造り変えられていく人の経験を説明します。ですから、彼自身のほか、その名の意味を知っている者はいないのです。

<抜粋>パンと魚

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