9月01日 日ごとのパン

dailyfood01 日ごとのパン

マルコ16:16, 16節のノート1, 2

「信じてバプテスマされる者は救われる。しかし、信じない者は罪に定められる」。

信じることは、奴隷・救い主を受け入れることであり(ヨハネ一・十二)、これは罪の赦しのためだけでなく(使徒十・四三)、再生のためでもあります(Ⅰペテロ一・二一、二三)。信じた者たちは、三一の神との有機的な結合の中で(マタイ二八・十九)、神の子供たち(ヨハネ一・十二―十三)、キリストの肢体となります(エペソ五・三〇)。バプテスマされることは、奴隷・救い主の死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また、奴隷・救い主の復活を通して復活させられ、神の新創造となることによって、これを確認することです。そのようなバプテスマは、ヨハネによる悔い改めのバプテスマよりはるかに進んでいます。信じることとバプテスマされることは、神の全き救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側の確証がありません。これら二つは並行すべきです。さらに、水のバプテスマには、霊のバプテスマが伴うべきです。それは、イスラエルの子たちが、海(水)の中と雲(その霊)の中でバプテスマされたようにです。
「信じない者は罪に定められる」のであって、「信じないでバプテスマされない者」とは言っていません。これは、罪定めは信じないこととだけ関係があって、バプテスマされないこととは関係がないことを示しています。信じることだけで、人が罪定めから救いを受けるのに十分です。しかし、人の内なる救いの完成のために、信じることは、外側の確証としてのバプテスマを必要とします。

<抜粋>パンと魚

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