6月10日 日ごとのパン

dailyfood01 日ごとのパン

Ⅰヨハネ 1:7, 7節のノート3, 5

「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩くなら、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めます」。

わたしたちは神聖な光の中に生きる時、その光の照らしの下にあります。この光は、神の神聖な性質によって、わたしたちの中にある彼の性質を通して、わたしたちのすべての罪、違犯、失敗、欠点を暴露します。それらは神の純粋な光、完全な愛、絶対的な聖、卓越した義に矛盾します。そのような時、わたしたちは照らされた良心の中で、主イエスの贖いの血の清めが必要であると感じます。そして、その血はわたしたちの良心の中で、すべての罪からわたしたちを清め、神との交わり、また互いの交わりが維持されます。神とわたしたちとの関係は、壊れることはありません。ところが、神との交わりは中断することがあるのです。前者は命からです。後者も命からですが、わたしたちの生活に基づいています。前者は無条件であり、後者には条件があります。この条件付きのほうは、主の血の不断の清めによって、維持される必要があります。
「清め」るのギリシャ語の動詞の時制は現在形であり、継続的な行動を意味しており、神の御子イエスの血がいつも、継続的に、絶えずわたしたちを清めることを示しています。ここで清めるとは、わたしたちの良心における主の血の即時の清めを言います。神の御前で、主の贖いの血はわたしたちを一度限り、永遠に清めました(ヘブル九・十二、十四)。その清めの効力は神の御前で永遠に続き、繰り返す必要はありません。しかし、わたしたちの良心においては、神との交わりの中で神聖な光によって良心が照らされる時はいつでも、わたしたちは繰り返し、主の血の絶え間ない清めを即時に適用する必要があります。この即時の清めは、雌牛の灰と混合した汚れの水でのきよめによって予表されています(民十九・二―十)。

<抜粋>パンと魚

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