列王紀があるのは、神の心にあるものをわたしたちに啓示するためです。神には無駄な言葉はありません。この六日間、わたしたちがここにいるのは、ただ別の聖書の学びを行なうためでも、ライフスタディの学びでもありません。わたしたちはここで結晶の学びを行なっています。それが意味するのは、結晶にたどり着く必要があるということです。わたしたちがここにいるのは、列王紀自体を学ぶためではなく、列王紀から結晶を見るためです。ですから、わたしたちは聖書の学びをするときでさえ、その領域から抜け出す必要があります。わたしたちはだれが何をしたのか、なぜ彼がそれをしたのかという領域から出て、別の領域、すなわち、わたしたちの三一の神の領域の中へと入り、彼の心に触れて彼の永遠のエコノミーに触れることを願います(エペソ1:10.Ⅰテモテ1:4.創1:26.啓21:1-2)。
[2022年7月定期訓練 メッセージ1 ノートより]
エペソ1:10
時代の満了時のエコノミー[経綸]へ至るためです.すなわち、キリストの中で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、彼の中でかしらにつり上げようとされたのです.
Ⅰテモテ1:4
作り話や果てしのない系図に、心をとめたりすることがないように命じなさい.そのようなものは、信仰の中にある神のエコノミー[経綸]ではなく、むしろ論議を引き起こすだけです。
啓21:2
わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。