24日: イエスだけをひたら見る時間を持つように祈る

とりなしの祈り

わたしたちは自分自身を見るときはいつでも、自分の足が不自由であることを見いだし、失望してしまいます。「わたしたちが毎主日ごとに、主の食卓に来るとき、自分がその週どれほど悪かったか、どれほど失敗したか、またこれやあれやについて考えてしまうということを、わたしは知っています。しかし、わたしたちの罪を告白しましょう。主の血の清めを享受しましょう。主の赦しを再び享受しましょう。わたしたちの不自由な足から、わたしたちの両足からわたしたちの目を上げて、信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見てください。さらに時間を費やしてこの事を行ないましょう(参照、雅3:1-5)。

[2021年12月訓練 メッセージ10 ノートより]

 

雅歌3:1-5

わたしは、夜ごと床の上で、わたしの魂の愛する方を捜しました.わたしが捜しても、彼は見あたりませんでした。

さあ、起き上がって町を行き巡り、通りや広場で、わたしの魂の愛する方を捜して来よう.わたしが捜しても、彼は見あたりませんでした。

町を歩き回る見張り人たちがわたしを見つけました.わたしの魂の愛する方を、あなたがたは見かけませんでしたか?

彼らの所を通り過ぎると間もなく、わたしの魂の愛する方をわたしは見つけました.わたしは彼をしっかりつかんで、もはや行かせない.わたしの母の家に、わたしを身ごもった者の奥の間にお連れするまでは」。

「エルサレムの娘たちよ.わたしはかもしかや野の雌鹿によって、あなたがたに命じる.わが愛する者が自ら願うまでは、彼女をことさらに目覚めさせることも、呼び起こすこともしないように」。

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