第23編 アンドリュー兄弟の病の中での主に対する経験 (2020/9/23)

第28課 アンドリュー兄弟の2020年疫病期間のメッセージ集

2020 年 9 ⽉ 6 ⽇主⽇の午前 6 時、わたしは⾼熱と診断され、妻は新型コロナウイルスに感染したのではないかとわたしを⼼配し、すぐに 911 に電話をかけました。検査結果は陰性でしたが、わたしは肺炎であると診断されました。治療のために、医者はわたしに点滴をし、抗⽣物質を注射してくれました。その後の検査結果によると、今回の肺炎は吸引肺炎であって、その原因は古い病気によって引き起こされた物を飲みにくいことによるものであることがわかりました。この問題の解決策は、わたしのために胃管を挿⼊することです。これを⾏なうには、七⽇間待って、そして服⽤している抗凝⾎素の薬を飲まないようにする必要があります。なぜなら、この薬は⼿術に影響を与えるからです。同時に、わたしは何も⾷べたり飲んだりすることはできませんが、点滴は毎⽇の必須栄養素の 50%しか供給しません。9⽉14⽇に⼿術を受け、9⽉16⽇に退院しました。

その間、わたしは確かに⾮常に疲れを感じました。わたしの動きは両腕の点滴の管によって制限されていました。この 11 ⽇間は、牢屋にいたかのようです。主がスミルナに在る召会に⾔われたことを思い、同じようなことを経験していると感じました。わたしが⽬覚めているようで⽬覚めていないとき、雅歌第 8 章の断⽚がわたしに臨みつづけました。約 1 年半前、わたしの誕⽣⽇の2⽉ 10 ⽇に、主はわたしにこの⾔葉を与えてくれました。「⾃分の愛する⽅に寄りかかって、荒野から上って来る者はだれか?  わたしはりんごの⽊の下で、あなたを呼び覚ました。そこで、あなたの⺟はあなたのために産みの苦しみをした。そこで、あなたを産んだ者は産みの苦しみをした」(雅歌8:5)。呼び覚まされることは、ある意識状態から別の意識状態に移⾏することです。わたしたちが主を⾒るとき、わたしたちは現在の意識の状態から別の状態に移ります。夢から⽬覚め、⾮現実的な状態から現実へと移⾏します。この意味で、わたしたちは今、⼀⽅、夢の世界にいるが、主の臨在の中にいる状態は実際です。夢から⽬覚めると、徐々に無意識から意識ある状態に戻ります。同様に、わたしたちが⾁体(⼈⽣)の終わりに近づくにつれて、わたしたちはますます主の臨在を感じ取ることができるようになります。わたしたちが復活の中で主と共に⽬覚めるとき、わたしたちは実際の中で⽬覚めます。そのとき、わたしたちにとって、今の⼈⽣は夢のようになります。

彼⼥が⽬覚めたとき、彼⼥は⾃分がずっとりんごの⽊の下にいたことに気づきました。この⼈⽣を振り返ると、わたしたちは命と命の供給の下にあったことがわかります。  「あなたの⺟はあなたのために産みの苦しみをした」。⽣涯を通してわたしたちのために産みの苦しみをしたのは恵みです。救いはわたしたちが主を知るためのわたしたちの労苦だと思いますが、実際、わたしたちのために労苦するのは恵み、すなわち主ご⾃⾝です。主はわたしたちの救いのためだけでなく、わたしたちが造り変えられるためにも労苦されました。

わたしはこの節の前半、「⾃分の愛する⽅に寄りかかって、荒野から上って来る者はだれか?」が特に好きです。わたしたちが主に近づくとき、わたしたちは荒野から出てきます。つまり、旧創造の中のすべての⽣活から出て来ます。来たるべき⽣活と⽐べると、今の⽣活は荒野であり、わたしたちはそこから出なければなりません。マタイによる福⾳書の第 25 章で、処⼥はこの世から「出て⾏」きます。ここでは、彼⼥はこの世から「出て⾏」きます。マタイによる福⾳書はこの旅の始まりを描写し、雅歌はこの旅の終わりを描写しています。この節は「これは……だれか?」で始まります。これは、彼の外⾒が以前と異なること、また彼が更新されていることを意味します。 わたしは特に「寄りかかる」という⾔葉が⼤好きです。これは、1)彼⼥が弱く、2)主に信頼し、3)主を愛しているという意味です。あなたがだれかを愛している場合にのみ、あなたはその⼈に寄りかかることができます。ヨハネは主を愛したとき、主の胸に「寄りかかり」ました。わたしたちが荒野から出て来たとき、わたしたちは⾃分⾃⾝がますます弱くなり、主にますます信頼する必要があると感じ、主への愛がますます親密になります。わたしは⾃分の体がだんだん弱くなってきていると感じるとき、ますます主に寄りかかる必要があると感じていることを認めなければなりません。これが、神・⼈の⽣活を⽣かし出すことの意味だと思います。

次の節はわたしにとって⾮常に個⼈的な意義があります。  「わたしをあなたの⼼に印のようにし[てください]」。これは愛する者の主への祈りですが、主の彼⼥に対する願いではありません。「あなたの腕に印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみはシェオール[陰府]のように残酷だからです。そのきらめきは⽕のきらめき、エホバの炎です」。死とハデスは⾁体の命の境界ですが、愛はこの境界を越えることができます。  「⼤⽔も愛を消すことができません。洪⽔もおぼれさせることができません……」。この愛を奪い去ることのできる苦難はありません。「もし、⼈が⾃分の家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、限りなく卑しめられるでしょう。」

パウロは、この世にとどまるよりも主に⾏くほうがはるかにまさっているが、信者の益のために、むしろこの世にとどまることにしたと⾔いました。上記の雅歌の⾔葉の直後に、愛する者の妹が成就される必要があると⾔及しています。これは主がわたしたちをこの世に残す理由であり、他の⼈を顧みたり、助けたりするためです。主が量ってくださった時間がどのぐらいであっても、わたしは管となり、祝福を他の⼈にもたらしたいと主に祈り願っています。

11 ⽇間の⼤部分の時間、わたしはシングルベッドのある部屋に⼀⼈で横になっていました。しかし、13 ⽇に、わたしは別の患者とルームシェアするために別の部屋に移されると⾔われました。個室でも⼤変なところがあったので、部屋を変えることでとても気落ちしました。また、他の⼈からコロナを移される⼼配もありました。看護師が別の患者のために個室を空ける必要があると説明し、「部屋を変えていただいてもよろしいでしょうか?」とわたしに尋ねると、わたしは弱い声で最⼤限に⾳量を上げて、「ダメです!」と答えました。「部屋を変えて頂いてもよろしいでしょうか?」と彼⼥は再び尋ねました。  わたしは「ダメです」と答えましたが、何も変えることはできませんでした。   しかし、わたしがそのように反応した後、主は内側でわたしを叱責されました。まるで、主はわたしに「それはキリストではない」と⾔ったかのようです。わたしが悔い改めた後、主はパウロがローマの総督官邸に監禁された時、看守と⼀緒にいたということをわたしに⾒せられました。わたしはピリピ⼈への⼿紙第1章の⾔葉を思いました。そこで、キリストがどのように⼤きく表現され、パウロの状況から⽣かしだされか、また、彼はどのように聖徒の祈りとイエス・キリストの霊の満ちあふれる供給によって救われたか、そして、総督官邸の⼈々がどのように、パウロの投獄はキリストのためであることを知ったかはありました。わたしは主がしたいことに対して「アーメン」と⾔うしかありませんでした。

わたしは 5 階から 4 階に移されました。別の患者がわたしと同じ部屋にいて、⽔⾊のカーテンがあって、互いに⾒ることはできませんでした。その⼈と看護師さんとの会話を通して、彼の名前がアロンで、38 歳、⽩⼈の職⼈であり、アンドリューという名前の双⼦の兄弟がいることを知りました。彼はハンティントンビーチで育ち、15 歳の娘がいます。現在はルームメイトとハンティントンビーチに住んでいます。彼は昨晩の事故で⼿⾸を⾻折し、⼿術が必要でした。わたしは彼に声をかけることにしました。

「アロン!」わたしはカーテンを通して彼を呼びました。彼はしばらくためらって、「はい」と答えました。

「わたしの名前はアンドリューです。主の恵みはあなたに⼗分ですよ」。 彼は躊躇しましたが「ありがとう」と答えてくれました。わたしはこのぐらいしか話す⼒がありませんでした。

翌朝、「アロン、おはよう」と⾔いました。

「おはようございます」

「主のあわれみは朝ごとに新鮮です。彼の信実は偉⼤です。彼は彼を呼び求めるすべての者に豊かです」 「ありがとうございます。」

カーテン越しに、わたしは彼に「おお、主イエスよと呼んでみませんか?」と尋ねました。彼は⼩さい声で呼びました。

「アロンという名前の意味を知っていますか?」

「知りません!」

「アロンはモーセの助け⼿であり、神の御前に⽣きる⼈でした」。わたしはそれ以上話せませんでした。わたしは⼿術室に⾏かなければなりませんでした。わたしが戻ってきた時、彼が⼿術室に⼊る番になりました。「アロン、⼿術室に⼊る前に三回主を呼び求めるのを忘れないでください」とわたしは再びカーテン越しに⾔いました。それから彼は押して⾏かれました。その後の 24 時間の間、わたしは彼とさらに会話をしました。彼は⼿術室に⼊る前にわたしが⾔ったように主の御名を呼んだとわたしに⾔いました。わたしは彼のメールアドレスをもらって、家に帰ってからメールを送ったところ、アロンからとても親切な返事がきました。  結果がどうであれ、わたしはキリストがこの⼤変な状況の中で⼤きく表現されたことをとてもうれしく思います。アロンのためにお祈りください。

 

 

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