20日: 命の豊富、命の満ち溢れが現れるように祈る

とりなしの祈り

わたしたちの親愛なるウォッチマン・ニー兄弟を思い出さずにはいられません。彼は、獄中生活での最後の二十年間の彼の人生において、彼は、鎖に繋がれた、ただ神に信頼するゆりでした。彼は鎖につながれました。複雑な状況、すべてが錯綜する状況でした。しかし、ゆりは成長し、さらにいっそうざくろが成長していました。命の豊富さと命の満ち溢れ、命の美しさが全地に現れました。なぜなら、彼は、その居房の中で柱であり、自分のために生きるのではなく、神の民のために生き、神の裁きの下に自分自身を置き、あらゆる種類の格子細工とあらゆる種類の鎖細工からなる神の案配に自分自身を服従させ、神に信頼する単純で純粋なゆりとなることを学んでいたからです。神は、そのような柱を通して表現され、豊富な命を生み出すことによって確かなものとされました(マタイ6:28、30、Ⅱコリント5:4、ピリピ1:19-21)。[2021年7月訓練 メッセージ11 ノートより]

 

マタイ6:28

また、なぜあなたがたは、衣服について思い煩うのか? 野のゆりがどのように生長するか、よく考えてみなさい。それらは労苦もせず、紡ぎもしない。

 

マタイ6:30

今日はここにあっても、明日は炉に投げ入れられる野の草を、神はこのように装ってくださるのだから、あなたがたにはなおさら、着せてくださらないはずがあろうか? あなたがた信仰の小さい者よ.

 

Ⅱコリ5:4

さらに、この幕屋の中にいるわたしたちが、重荷を負わされながらうめくのは、脱がされることを願うからではなく、着せられることを願うからです.それは死ぬべきものが、命によって飲み尽くされるためです。

 

ピリピ1:19

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.

ピリピ1:20

そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。

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