12月29日 日ごとのパン

dailyfood01 日ごとのパン

Ⅱコリント22:10, 10節のノート3

「しかし、何かの事であなたがたが赦す人を、わたしも赦します。なぜなら、もしわたしが何かを赦したとしたら、わたしの赦したことは、あなたがたのためにキリストの御前で赦したからです」。

「御前」とは、目の周りの部分を言っています。内側の考えや感情は目に現れるので、目はその人全体を現し出します。これは、使徒がキリストの臨在の中で、キリストの目に現されているキリストのパースンにしたがって生き、振る舞った人であったことを示します。コリント人への第二の手紙の最初の部分は、コリントの混乱した信者たちへの第一の手紙に続く、第二の手紙の長い序文です。彼らが、第一の手紙における使徒の叱責を受け入れて、悔い改めたという知らせ(Ⅱコリント七・六―十三)を受け取って、使徒は慰められ、励まされました。このゆえに、彼はこの書を書いて、彼らを親密に、優しく、愛情をもって慰め、励ましました。ですからこの書は、ある意味で彼の自叙伝と考えられます。わたしたちは、この自叙伝の中で、彼が第一の手紙でキリストについて書いたとおりにキリストを生きた人であったことを見ます。彼はキリストと最も近く最も親密な接触を持ち、キリストの目にしたがって行動した人でした。彼はキリストと一であり、キリストに満たされ、キリストに浸透された人でした。彼は砕かれた人で、天然の命は終わらせられ、意志は柔順で柔軟性があり、感情は愛情深く制限され、思いは思慮深く冷静であり、霊は信者たちのために益を図ることで純粋で真実でした。彼がこのような人であったのは、コリントの信者たちも、彼と同じようにキリストを経験し享受し、それによって、キリストのからだの建造という神の永遠の目的が成就されるためでした。

<抜粋>パンと魚

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